歴史物語に挑む意義


近年、歴史系の学界では「危ない話」を語るものは忌み嫌われる。学術的に正しい範囲があって、それを踏み越える行為や、限界の甘い認識がタブー視される。では「正しい範囲」とはどんなものかと云うと、科学的ないし合理的に立証された領域だろうか。つまり、推察考察を抑制し、論理の飛躍を非難し、直感的見解を退ける。「証明されていないものは嘘」と推定されるのであり、「嘘は罪悪」だからだ。

学界で正しい認識を共有することに異論があろうはずが無い。しかし、「正しくありたい」という考えと、「間違ってはいけない」という主張に隔たりは無いだろうか。正しくあるためには、議論を活発に行う必要がある。それに、科学的に証明された事象は未来永劫絶対的に正しい、そう胸を張って言える人はいないだろうに。

科学や合理性もひとつの思想であって、森羅万象全てを統べることはできない。「正しい範囲」が時と場合によって変わるものならば、間違いそのものを罪に問うのではなく、ダイナミックな状況判断の中でとるべき態度を適宜に確認するのが重要だろう。それには間違いは避けて通れないし、どんなに素晴らしい人物がいたとしても一人に頼っていてはいけないだろう。ダイナミズムに向かって行くには、挑む側が常に新しいものを生み出して、代謝しながら長く存続し続ける必要がある。

社会や文化を引き継いでゆくことはなるほど困難だ。しかし、専門家、学者は小難しいことを引き受けて、一般の人に還元するべく取り分けて整理するのが仕事なのだから、「危ない」と逃げてばかりはいられない。そして、一般に歴史にはロマンが求められ、物語として記憶されるのだ。ならば、大胆に新たな歴史を物語る試みに意義が見つかる。

絵だけを保存する愚を嘆く


どうやら文化庁にとっては、高松塚の壁画は重要だが、石室はそれほど大切でもないようだ。報道を見る限り、古墳そのものには執着していない。壁画を残しましょうね、とやっていれば、テレビはその話を流してくれるし、飛鳥美人のかつての姿は映りがいいしで、世論をよろしく誘導できると踏んでいるのだろう。

しかし、問題は「今の世論」だけではない。

なぜ壁画がこの二、三十年で痛んだかというと、石室を開けたからだ。皇室の墓として敬われてきた古墳を、学術研究が目的とは云え、その必要の是非や保存技術の開発といった問題が残っていた時点で、やってしまったことが今日の惨状の原因だ。つまり、その時の議論で優勢である意見が必ずしも「正しい」わけではない。そのことを改めて見直して欲しい。ここで、射程を長く深くとり、かなりの長期を見越して考えておくことが何よりも優先すべきことだと思われる。またバタバタとやってしまっては、同じ過ちを繰り返しかねない。「兎に角、残さなければならない。きちんと保存さえしたら、その後の対処はゆっくり議論すればいい。」という考えに潜む嘘を易易と受け入れてはいけないのだ。

先ず、残すものは何か。これが大変に厄介な問題だ。常識的に考えて、壁画が残ればいいというものではない。少し考えれば分かる。今テレビに見る状況は、ニュースでグラフィックに説明されるところの、ばらした石室を新しく建てた別の建物に展示した姿とは、似ても似つかない。古代から残されたものは、塚に埋まった石室であり、その狭っ苦しいところを飾る壁画である。勿論、棺や副葬品も一緒だ。一つ一つをばらばらにしてしまっては、それらが纏まっていた意味が見えなくなる。素人であればなおのこと、当時の姿を頭の中で再現するのが難しい。

それに、今有力とされる方法をとると、壊れてしまって取り戻せなくなるものがたくさんある。塚そのものはどうなるのか。土など見る必要など無いということだろうか。今はできなくとも、将来的に盛土を丁寧に調査して分かることもあるだろう。例えばどうやって土を固めたのか。古代の土木技術を侮ることはできない。石室を支える部分と、側面や上部では、それぞれ工法が違っているように思われる。それをきちんと調べるつもりはあるのか。いや、そんな調査は充分に開発されているのか。できることなら、高松塚の土木技術が渡来のものか、はたまた在来のものなのか明らかにして欲しい。

大体、今のように皆が寄って集ってくるようだと、ケースに入れても壁画自体の保全さえも危うくなりそうだ。皆の興味が集中しているから、誰もがあの手この手でやって来て、功績を上げたいと苦心することだろう。もしそうなると、やがては切り刻まれかねない。「今ならまだ調査は可能だが、将来痛んでしまってからでは手遅れになって、充分な調査もされないままに失われる。」と誰も言わないとは限らない。

例え高松塚古墳の壁画が結果的に傷んでしまっても、ここで保存の基本的な問題を議論し、意識を共有化することを是非にも優先して欲しい。心から願う。

自動回転扉の事故防止に政府が動く

平成16年3月26日午前11時30分ごろ「六本木ヒルズ森タワー」におこった自動回転扉の事故をうけて、国土交通省経済産業省が安全基準作成に乗り出したという報道。(共同通信 2004.03.29)
規制緩和を目指す最中ですが、政府が規制強化に積極的です。将来的に、自動回転扉の設置に許認可あるいは届出といった手続きが必要になるのでしょうか。速やかな対応を示していますが、中央官庁は忙しいといわれます。基準の検討やその遵守に向けての取り組みは、実を結ぶのでしょうか。
ビル管理会社 森ビルは、不動産業界大手ですし、謝罪の姿勢を示しています。今後の改善も図られるでしょう。世論の関心を集めているので、ことの次第に注意するべきだと思いますが、政府による新たな許認可は必ずしも必要とは思えません。建設、不動産業界が見識を正すことが第一義でしょう。

小さなコア抜きで強度検査が可能に

銭高組、前田建設工業、日本国土開発の三社が、直径25ミリ、深さ50ミリのコア抜きで圧縮強度検査する技術を開発したという報道です。(日刊工業新聞 2004.03.16)
しかも、塩分含有試験や中性化の深度も測定できるとか。これは引き合いがありそうですね。
既に建っていて、これからも存続し続ける建物を検査するのに、場所こそ選びましたが、ボコボコと穴を空けてきたわけです。そう、後から処置をしても、元よりも耐力が弱まるとしか思えない方法だったのです。その痛い状況がやや緩和されるのは大歓迎です。でもあんまり高くつくと二の足を踏みますが。

建設株上昇との報道あり

四季報が発売になった今日、建設株についてコメントするニュースがありました。(ラジオたんぱ)
しかし、株価のチャートを追いかけても、強いて取り上げるほどの変化は読み取れませんでした。基本的には1996年に大きく落ち込んで以来、大手ゼネコンの株価は低迷しています。ただし、ここ一年ぐらいは出来高が高目のようです。
考えてみれば、土木部門を抱える大手ゼネコンが、公共工事に依存していた状況から脱するのは相当に困難が伴うはずで、まだ正念場を過ぎたとは思えません。他の業界のように、小回りのきく企業の登場を待ちたいものです。さて、日本のゼネコンからのスピンオフはありえるのでしょうか?

宇宙から長城は見えなかった

3月12日付けで、去年 2003年10月に中国が行った有人飛行では、万里の長城が肉眼で確認できなかったというニュースが伝えられています(中国-京華時報共同通信)。
それで、(中国では)教科書が修正されることになったそうです。幅が 10m ほどらしいので、肉眼では確認が難しいように思われますね。
昔、宇宙から地球の文明を確認するとしたら、巨大な建造物が最も有力だろうという説をテレビで知りました。すごく印象深く覚えていたのですが、万里の長城はどうやら役不足のようです。とすると、オランダの大堤防が異星人にもっともアピールするものとなるのでしょうか?

奈良県明日香村島庄遺跡で大型建物跡

7世紀第1四半期頃とみられる大型建物跡が見つかったというニュース。(時事通信他)
蘇我馬子の邸宅にあたるのではないかと、注目を集めています。「日本書紀」の記述と照らし合わせ、池と結びつけて検討が重ねられることでしょう。
報道の写真を見ると、その大型建物とは別の時期に、異なる方向で幾つかの建物が建てられていたようです。こちらは7世紀後半のもののようで、正方位を取るのですが、比較的小ぶりです。
建築作品として想像した場合、大きく堂々とした古い時期のものをとるのか、それとも手頃な大きさのしっかりとしたものを評価するのか?などと考えるのも楽しいですね。