絵だけを保存する愚を嘆く


どうやら文化庁にとっては、高松塚の壁画は重要だが、石室はそれほど大切でもないようだ。報道を見る限り、古墳そのものには執着していない。壁画を残しましょうね、とやっていれば、テレビはその話を流してくれるし、飛鳥美人のかつての姿は映りがいいしで、世論をよろしく誘導できると踏んでいるのだろう。

しかし、問題は「今の世論」だけではない。

なぜ壁画がこの二、三十年で痛んだかというと、石室を開けたからだ。皇室の墓として敬われてきた古墳を、学術研究が目的とは云え、その必要の是非や保存技術の開発といった問題が残っていた時点で、やってしまったことが今日の惨状の原因だ。つまり、その時の議論で優勢である意見が必ずしも「正しい」わけではない。そのことを改めて見直して欲しい。ここで、射程を長く深くとり、かなりの長期を見越して考えておくことが何よりも優先すべきことだと思われる。またバタバタとやってしまっては、同じ過ちを繰り返しかねない。「兎に角、残さなければならない。きちんと保存さえしたら、その後の対処はゆっくり議論すればいい。」という考えに潜む嘘を易易と受け入れてはいけないのだ。

先ず、残すものは何か。これが大変に厄介な問題だ。常識的に考えて、壁画が残ればいいというものではない。少し考えれば分かる。今テレビに見る状況は、ニュースでグラフィックに説明されるところの、ばらした石室を新しく建てた別の建物に展示した姿とは、似ても似つかない。古代から残されたものは、塚に埋まった石室であり、その狭っ苦しいところを飾る壁画である。勿論、棺や副葬品も一緒だ。一つ一つをばらばらにしてしまっては、それらが纏まっていた意味が見えなくなる。素人であればなおのこと、当時の姿を頭の中で再現するのが難しい。

それに、今有力とされる方法をとると、壊れてしまって取り戻せなくなるものがたくさんある。塚そのものはどうなるのか。土など見る必要など無いということだろうか。今はできなくとも、将来的に盛土を丁寧に調査して分かることもあるだろう。例えばどうやって土を固めたのか。古代の土木技術を侮ることはできない。石室を支える部分と、側面や上部では、それぞれ工法が違っているように思われる。それをきちんと調べるつもりはあるのか。いや、そんな調査は充分に開発されているのか。できることなら、高松塚の土木技術が渡来のものか、はたまた在来のものなのか明らかにして欲しい。

大体、今のように皆が寄って集ってくるようだと、ケースに入れても壁画自体の保全さえも危うくなりそうだ。皆の興味が集中しているから、誰もがあの手この手でやって来て、功績を上げたいと苦心することだろう。もしそうなると、やがては切り刻まれかねない。「今ならまだ調査は可能だが、将来痛んでしまってからでは手遅れになって、充分な調査もされないままに失われる。」と誰も言わないとは限らない。

例え高松塚古墳の壁画が結果的に傷んでしまっても、ここで保存の基本的な問題を議論し、意識を共有化することを是非にも優先して欲しい。心から願う。