歴史物語に挑む意義


近年、歴史系の学界では「危ない話」を語るものは忌み嫌われる。学術的に正しい範囲があって、それを踏み越える行為や、限界の甘い認識がタブー視される。では「正しい範囲」とはどんなものかと云うと、科学的ないし合理的に立証された領域だろうか。つまり、推察考察を抑制し、論理の飛躍を非難し、直感的見解を退ける。「証明されていないものは嘘」と推定されるのであり、「嘘は罪悪」だからだ。

学界で正しい認識を共有することに異論があろうはずが無い。しかし、「正しくありたい」という考えと、「間違ってはいけない」という主張に隔たりは無いだろうか。正しくあるためには、議論を活発に行う必要がある。それに、科学的に証明された事象は未来永劫絶対的に正しい、そう胸を張って言える人はいないだろうに。

科学や合理性もひとつの思想であって、森羅万象全てを統べることはできない。「正しい範囲」が時と場合によって変わるものならば、間違いそのものを罪に問うのではなく、ダイナミックな状況判断の中でとるべき態度を適宜に確認するのが重要だろう。それには間違いは避けて通れないし、どんなに素晴らしい人物がいたとしても一人に頼っていてはいけないだろう。ダイナミズムに向かって行くには、挑む側が常に新しいものを生み出して、代謝しながら長く存続し続ける必要がある。

社会や文化を引き継いでゆくことはなるほど困難だ。しかし、専門家、学者は小難しいことを引き受けて、一般の人に還元するべく取り分けて整理するのが仕事なのだから、「危ない」と逃げてばかりはいられない。そして、一般に歴史にはロマンが求められ、物語として記憶されるのだ。ならば、大胆に新たな歴史を物語る試みに意義が見つかる。